9月5日(火)の手紙


2017年9月5日(火)

『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。』マタイによる福音書11章28節


「最近、忙しい?」と尋ねて、会話を始めることがある。
この質問は一見無害だけれど、水面下に微妙なメッセージが隠れている。
人の価値を計っているようなところがある。
あれこれと予定がすぐに口をついて出てこないなら、自分が大した価値のない人間だと認めているように感じるからだ。

だけど神は、忙しい人か否かで、その人の価値を決められるのだろうか。
私たちの成果で、価値を計算されるのだろうか。
自分の健康さえ省みず、燃え尽きる寸前まで奉仕することで、神の報いがあるのだろうか。

子どもには、マタイによる福音書11章28節「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」という御言葉の真意はわからないのかもしれない。
「疲れる」とはどういうことが分からないのかもしれない。

だけど大人になると、落ちこぼれないように世の中に合わせなければという誘惑にかられる。

だけど、クリスチャンは違う。
私たちは罪の奴隷だったけれど、イエスに解放された。
イエスはまた、自分の価値を自分で証明するという束縛からも、私たちを解放してくださった。

自分の働きが祝福されて良い結果が出ると、自分には価値があると感じられるのかもしれない。
だけど、私たちが神に感化されて人格者になっていくことの方が、神にとってはずっと価値がある。
つまり、どれほど御子の形と同じ姿にされたのかということの方が大切なのだ。

私たちの価値は、私たちが神のために何をしたかではなく、神が私たちに何をなさったかで計られるのではないだろうか。

God Bless You!!

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