9月26日(火)の手紙


2017年9月26日(火)

『ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、』ルカによる福音書10章33節


私たちは、愛の少ない者だ。
なぜだろう。
親切にできない最大の理由のひとつは、相手の値踏みをするからだ。
私たちには「私の親切を受けるにふさわしい人とは、かれこれしかじかの人」と言う固定観念がある。

イエスに「では、私の隣人とは、だれのことですか」と質問をした人がいた。
つまり、「私の親切を受けるのにふさわしい人は誰ですか」という質問だ。
イエスはその答えとして、たとえ話をなさった。

それは非常に危険だと悪名高い、エルサレムからエリコに続く道で起こった出来事。
旅人が強盗に襲われた。
身ぐるみをはがされて殴られ、瀕死で置き去りにされた。
そこに、信仰の人であるはずのユダヤ人(祭司とレビ人)が通りかかったけれど、この人たちは反対側を通り過ぎていった。
多分、宗教的に汚れることを恐れたのだろう。

だけど、サマリヤ人が通りかかり、見知らぬ人が苦しんでいるのを見て、純粋に気の毒だと思った。
ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していたので、聴衆はイエスの話に息を飲んだことだろう。

サマリヤ人は、この人にあわれみをかける必要はなかった。
彼は自分たちを軽蔑しているユダヤ人だったから。
だけどこの人は、相手の値踏みをしなかった。
助けの必要な人だったので、手を差し伸べてあげた。

私たちは人を選んで親切にしていないだろうか。
イエスに従う者ならば、誰にでも親切にしよう。
特に、無視しがちな人たちに、愛を実行しよう。
キリストを愛する愛の本気度は、隣人を愛する愛によって計られるのかもしれない。

God Bless You!!

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