2015年8月30日(日)
『この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。〔セラ〕』詩篇24篇10節
ダビデ王は、詩篇24篇の終わりで「万軍の主、これこそ栄光の王である」と宣言した。
聖書には、その後に「セラ」という言葉が続いている。
「セラ」は、他の多くの詩篇にもつけられている。
ある人は「セラ」は、間奏を入れる印だと言う。
詩篇は、音楽をつけて歌われていたからだ。
「セラ」は意味のある言葉だという学者もいる。
「静けさ」、「休止」、「中断」、「強調」、「高揚」、または「終止」などの意味ではないかと語る。
それを思うなら、一日の中に「セラの時」を設ける事は、神を礼拝する助けにならないだろうか。
まず静まり、神の声を聞こう。
忙しい一日の中でも、ちょっと手を休めて、霊性をリフレッシュさせよう。
慌しく動き回る事を中断して、罪を悔い改める時を持ち、赦していただこう。
神が必要を備えてくださる事を、大いに感謝して喜ぼう。
祈りに応えてくださる神の御名を、試練の中にあっても高くほめたたえよう。
主の真実を思って、一日を終わらせよう。
ダビデは、「セラ」の間も、神を思い巡らしていたに違いない。
ダビデを手本にするなら、私達も一日中、神を礼拝できるようになる。
礼拝しないで一日が終わるなら、それは不完全な一日なのだから。
God Bless You!!
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