8月26日(金)の手紙


2016年8月26日(金)

『人の子よ、これらの人々は、その偶像を心の中に持ち、罪に落しいれるところのつまずきを、その顔の前に置いている。わたしはどうして彼らの願いをいれることができようか。』エゼキエル書14章3節


ある宣教師が夫婦で海外に赴いた時、世の中が物質主義になっていると危惧したそうだ。
だけど、自分達もそうだとは思わなかった。

ほとんど何も持たずに宣教地に赴いたのだ。
そして、これといった家具もないぼろアパートに住んだのだから、物質主義とは無縁だと思っていた。

だけど、間もなく満たされない思いが募ってきた。
良い物が欲しくてたまらなくなり、それが買えない事に密かに腹を立てていた。
そんなある日、聖霊によって宣教師の目が開かれて、困惑させられるような現実と向き合う事になった。

物質主義は、物を手に入れる事だけではない。
欲しくてたまらないというのも、同じだ。
神は、私達の満たされない思いが何であるかを示してくださり、私達の心の偶像を明らかにされる。

宣教師は、この人目につかない罪を悔い改めた。
すると、神は宣教師の心を再び御座としてくださった。
宣教師が、物ではなく神を基盤とする深い喜びに満たされたのは、言うまでもない。

神はエゼキエルの時代、この種の隠れた偶像崇拝を徹底的に指摘された。
この世における神の御座は、常にクリスチャンの心にある。
だから、神によって満たされる事を阻害するものがあってはならない。
それは、心から完全に取り除かなくてはならない。
本来、神の場所を横取りしようとするものは何でも偶像なのだから。

God Bless You!!

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