2025年7月9日(水)の手紙
「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。』」マタイの福音書6章9節
イエスの弟子たちはイエスに頼みました。
「私たちに祈り方を教えてください」と。
イエスは「主の祈り」を彼らに教えました。
私たちはそれを暗唱できますが、その力を使い切ることはできないか、またはその意味を完全に理解できないでしょう。
祈りは信仰の中心です。
祈りは「最も価値のある芸術」「最も良い方策」「最も崇高な喜び」「教育」と呼ばれてきました。
聖人たちはよく祈りました。
イグナチュース・ロヨラは一日に七時間を祈りに捧げました。
ジョン・ウェズレーは祈りと断食のために数日間、誰にも会いませんでした。
パウロは「やむことのない」祈りをするよう勧めたり、実行したりしました。
イエスは昼も夜も神と話して過ごしました。
しかし祈りはなお偉大な神秘——必要なものです。それは私たちの神との交流です。
偉大な神学者のリチャード・ニーバーは尋ねられました。
「あなたの祈りの神学はどんなものですか」と。
彼は答えました。
「私には祈りの神学などない。
祈りは話すことではない。
祈りはあなたが行うことです。
祈りは神学的な考えの結果ではない。
それはすべての神学的な理論の土台である」
ニーバーの答えはまだなお祈りを神秘のままにしておきます。
祈りは崇拝、願い、話、希望、嘆願、とりなし、告白、感謝、傾聴などですが、それは人間の魂と神の間にあります。
それは創造主と被造物の間の動的な人間関係です。
それは呼吸のように正常で自然です。
テンプル大司教は私たちが祈ると奇跡が起こると言いました。
「あなたが奇跡と呼ぶものは単なる偶然ではないですか」と疑い深い人が尋ねました。
「ええ、たぶんそうです。
しかし、私が祈るとき、偶然が起こるのに気づきました。
祈らないときはその偶然は起こりません」
私たちの生活は単なる偶発や運ではないのです。
祈りによって生き生きとなる「神の出来事」なのです。
主よ、
私は、偶然ではなく、神の出来事を信じます。
私の生活は運でもなく、偶発でもなく神にとって、他の人にとって大切なものであることを知っています。
アーメン
God Bless You!!