2025年7月8日(火)の手紙
「別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』」ルカの福音書14章19節
「言い訳」(alibi)という語は、ローマ時代に起源があります。
当時それは「他の場所にいる」ことを意味しました。
現在、弁護士は、ほとんど同じ意味で使っています。
漁師たちはalibiを高いレベルの意味まで引き上げました。
湖の上での長い、不漁の日、漁師は言うのです。
「このような濁っている水に何も期待できないよ」
その同じ漁師が、また別の日に不漁で「湖の透き通った水は絵葉書ではきれいだが、魚がびっくりするよ」と言います。
ベンジャミン・フランクリンは言いました。
「言い訳するのがうまい人は何事にもうまくいかない」
他の人も言っていました。
「自分に言い訳する人は自分を非難しているのです」
回復途上で、自分の行為を正当化するためによく使っていた言い訳や、弁解を思い出すことがあります。
いつも非難すべき理由や環境があったかもしれないし、そのような人がいたかもしれません。
たぶん、学校で弁解をすることを学んだのかもしれません。
「メアリーは○○なので、すみませんが〜」と両親に手紙を書いてもらいました。
「苦境から抜け出る」ことに慣れ、そして自己正当化にも慣れたのです。
しかしながら、回復においては「言い訳」の余地はありません。
言い訳は許されません。
真実だけが認められます。
完全な誠実さと自己責任が必要とされます。
軍隊での兵卒のように私たちの答えは「はい、主よ」、あるいは「いいえ、主よ」、「言い訳はありません、主よ」であるべきです。
回復途上のクリスチャンとして私たちの生活は、弁解を必要としない生活なのです。
より良く行うための意志と行いだけです。
主なるキリスト、私は弁解しません。
私を清め、あなたの真実な愛を与えてください。
そして罪から私を自由にしてください。
アーメン
God Bless You!!