2025年7月2日(水)の手紙

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」マタイの福音書6章33節


私たちは助言の力で方向づけられます。
建設的な考えや、否定的な考えは注意を引きます。

不思議にも「するな」と言われると、「しなさい」と言われたように思う習性があります。
子どもにあることをしないように話すことは、その行いをするように約束することなのです。

ある有名な野球のピッチャーがこのような悩みを生き生きと記憶していました。
知らないバッターに向かった時、そのピッチャーは監督と話したいと頼みました。

「偵察隊によると、このバッターは高く外に打つそうだ。
その場所からボールを遠ざけろ」

監督はマウンドから離れていこうとした時繰り返しました。
「さあ、外のコーナーに高く投げるなよ、いいか」

そのピッチャーは何が起こったかを繰り返します。
「高く、外へ、という声が私の頭にひらめいたのです。
どこに私はボールを投げたと思いますか。
もちろん、私は高く、外へ投げました。
そしてバッターはホームランを打ちました」

何が問題かを気づくことは、それを取り除くことではありません。
何が間違っているかに集中することは、その問題を永続させ、強めさせます。

間違いは正しいことに取って代わる必要があります。
「正しい心」を持つということはそういうことです。

そのピッチャーは「低く、中に」に集中することが必要でした。
なぜなら、そこへ彼が行く必要があったからです。

回復において私たちは同じ焦点が必要です。
私たちに前向きな方向を与えます。

パウロはこれを雄弁に語ります。
「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」

主よ、
私の考えを前向きに導いてください。
アーメン