2025年3月3日(月)の手紙

『私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。』ローマ人への手紙6章8節


ある古いインディアンの伝説に、ナイアガラ瀑布近くの部族の話があります。
その部族には毎年この滝の偉大な神に彼らの部族の中で最も美しい娘の一人を生けにえとして捧げる儀式がありました。

ある年に酋長の最愛の娘が犠牲になることがくじ引きで決まりました。
酋長にでさえ、免除はゆるされませんでした。

運命の日が近づいたとき、酋長はその儀式の座長を務めることになっていましたが、彼は現れませんでした。
彼なしで、その儀式は進められました。

そのインディアンの娘は滝に流されるカヌーの中で縛られていました。
彼女のカヌーが急流に押し流されようとしたとき、別のカヌーが隠れていた所から出てきて彼女に合流しました。

それは父親の酋長でした。
娘の死に加わるために彼女の側にきたのです。

クリスチャンにはこれはよく知られた話です。
それは十字架の中心的な事実です。
気高い犠牲以上のもの、もちろん哀れな愛の感傷的な話以上のものです。

キリストの十字架は神ご自身の力・存在なのです。

パウロはイエスの十字架に私たち自身の本質を見ます。
「私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」

「キリストと共に」の表現は福音に溢れるほどあります。
私たちは滝に一人では行きません。
もちろんクリスチャンは滝の底に新しい生活があることを知っています。

また、ゆだねることを知っています。
「エゴやセルフコントロールの死」の滝へと私たちをプログラムの流れに任せる時です。

「ゆだね、神に任せる」ことはこのように恐ろしいのです。
古い衝動のコントロールを緩めることは「無統制」「無力」への恐れへと流されることになるのです。

しかし、このゆだねの中に私たちは救いを見いだします。

復活の主よ、
あなたを信頼し、あなたにゆだねることができるよう助けてください。
私の古い病の生活を死に追いやる時、あなたは私に健康な新しい生活をくださることを知っています。
アーメン

God Bless You!!