2025年2月24日(月)の手紙

『一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」』ルカの福音書18章13節~14節


キリストは自責の念であえいでいる依存症から回復しようとしている人には求めません。
しかし、私たちが許しの必要を感じないのに助けを求めることができるのでしょうか。

「恥を感じないこと」は真心の痛みに無感覚になっているといえます。

イエスは私たちの欠点を非難したり、責めたりしません。
しかしながら、神は私たちが性格の欠点を調べ、認めるように願っています。

なぜですか。
それらはもちろん取り除かれるからです。
主は私たちに十分な時間、恥を感じさせてから、恥を取り除いてくださいます。
それを捨てる前に重荷を感じる必要があるのです。

イエスは、重荷が取り除かれた徴税人の謙虚さを例に上げました。
彼の慈悲を求める請願は聞かれたのです。

「彼は義と認められ、家に帰って行きました」

彼は告白して、許されました。
しかしながら、何もないところに罪の意識を感じる人がいます。

依存症になったり、坊主頭になったり、喘息になったり、糖尿病になったり、美しくなかったり、金持ちでなかったりということは罪の意識を感じるのにふさわしくありません。

私たちが創造されたありのままの状態は私たちの過ちではありません。
私たちが実際に行ったこと、私たちの行動には責任があります。

嘘をつくこと、だますこと、盗むこと、他の人を傷つけること——それが罪です。

恥を感じることによって、正しく適合することができます。
そのとき、私たちは行ったことを謙虚に認めます。

次に取るステップはその罪を取り去り、その恥を消し、謙遜で、清くするステップです。

ユダヤ教のタルムードには次のように書いてあります。
「恥は人間の美しい感覚です。
恥の感覚を持つ人はすぐには罪を犯しません。
しかし少しも恥を感じない人にたいしては、父はシナイ山に決して立つことはなかったでしょう」

主よ、私の心を柔らかくしてください。
冷淡なプライドから私を救い出してください。
あなたを愛し、私に罪を認めさせ、恥を感じさせてください。
そして、あなたから許されることができますように。
アーメン

God Bless You!!