2022年9月9日(金)
『私たちはすべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。』コリント人への手紙第二10章5節
自分がしようとしていることを、決然とキリストに服従させる。
これこそは、聖徒に求められる奮闘のもう一つの側面である。
モファット訳によると、パウロは「私はあらゆる計画を虜にし、キリストに従わせている」と言っている。
今日、キリスト教の名でなされる働きが、一度も指導や訓練を受けることなく、思いつきで始まる場合のなんと多いことだろう。
主のご生涯においては、あらゆるご計画が御父のみこころに沿うように、厳格に整えられていた。
主が、御父の意志と異なってもご自分の意志を衝動的に行う、ということはただの一度もなかった。
「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません」と主は言われた。
それに引き換え、私たちはどうか。
鮮烈な霊的経験が一つあれば、一時の感情から生まれた計画を、ためらいもなく実行に移してしまう。
しかし本当はそれを虜にし、キリストに従わせなければならないのである。
今日では、クリスチャンが実際にどれだけの働きをしているか、という点が過度に重視される。
そのため「すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させている」聖徒たちは、自分にこだわっているばかりで神や人々のたましいに対する熱意が欠けている、と非難される。
しかし本物の熱意は、神に従っていくときに生まれるものであって、指導も訓練も受けていない人間の性質から、何となく生まれるわけではない。
信じがたいことではあるが、聖徒たちが、「すべてのはかりごと」や計画をキリストに服させることなく、人間的な思いに急き立てられ、しっかりと訓練を受けて霊的に成長することもないままに神のわざに携わっているのは事実である。
イエス・キリストに全面的にお頼りすれば救われる、ということが分かっていればいいのではない。
イエス・キリストが神について、またこの世や罪について、そして悪魔について教えられたとおりのことを全面的に受け入れるのでなければ十分ではないことを、私たちは忘れがちである。
それはとりもなおさず、一人ひとりが、「心を新たにすることで、自分を変えていただく」責任を認めなければならない、ということである。
God Bless You!!
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