2022年9月5日(月)
『ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。』マタイの福音書26章38節
「わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
つまり、自分自身の見方ではなく、イエスと同じ目ですべてを見よ、と言われたのである。
信仰を持ってまもないころ、私たちはイエスと同じ目で物事を見るのではなく、イエスを期待の目で見るだけであった。
私たちは、自分の生活においてすら、聖書の啓示を通してイエスと同じ目で見ようとしてはいない。
そこで主は、私たちそれぞれに「ゲッセマネ」の経験を与えて、主と一つになれるように手ほどきをされる。
ところが、私たちはゲッセマネに行くことを拒み、「主よ、なぜ、わざわざつらい経験をしなければならないのかわかりません」と言う。
そもそも、私たちの理解を超えた存在であるイエスと同じ目で見ることなどできるはずがない。
イエスがなぜ苦しんでおられるのかということすらわかっていない私たちが、どうしたらゲッセマネのイエスを理解できるほどに、イエスと一緒に目を覚ましていることができるというのだろう。
私たちは、イエスが一緒に目を覚ましてくださっているという考えには馴染んでいるものの、主と同じ見方がどうしたらできるのか分からないでいる。
弟子たちは能力の限界までイエス・キリストを愛したが、イエスがどのような目的でそのように言われたのか、理解することはできなかった。
ゲッセマネの園で、弟子たちは悲しみのあまり眠りこけてしまい、三年にわたる親密な交わりも、「みなイエスを見捨てて逃げてしまった」ことで終わりを告げた。
「皆が聖霊に満たされ」とあるのは、同じ弟子たちのことである。
主の死と復活、そして昇天という出来事の間に、素晴らしいことが起きた。
その結果弟子たちは、聖霊に占有された。
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」と、主が言っておられたことが起きたのである。
この出来事は、弟子たちが死ぬその日まで、主と同じ目で見ることをついに学んだことを物語っている。
God Bless You!!
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