2022年9月30日(金)
『今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。』コロサイ人への手紙1章24節
私たちは、自分自身を霊的に聖別して、それを召命の代わりにしようとする。
しかし、神との関係が正しくされると、神はそのような考えを白紙に戻し、飛び上がるほどの痛みがあろうとも、それまで主からの召命だとは思ってもみなかったことに私たちを釘づけにされる。
そして、一瞬の間まぶしい光が輝くと、私たちは主が何を求めておられたかをやっと悟り、こう言うのである。
「ここに私がおります。私を遣わしてください」と。
この召命は個人の聖化と無関係ではあるが、裂かれたパン、注ぎ出されたぶどう酒とは大いに関係がある。
もし神の指に押し潰されるのを拒めば、神といえども、私たちをぶどう酒に変えることは決してできない。
もし神が特別にご自身の指だけを使って、私を裂かれたパン、そして注ぎ出されたぶどう酒としてくださったなら、どんなによいことか。
しかし、私たちが嫌う人、または受け入れたくない状況を神が用いて潰そうとされると、私たちはそれに異議を唱えるのである。
「殉死」の場所を自分で選んではならない。
もしぶどう酒とされるのであれば、潰されないでいいわけがない。
実のままではぶどうを飲むことができない。
ぶどうは搾られてこそぶどう酒になるのである。
神はあなたを搾るために、どの指を使ってこられただろうか。
あなたはビー玉のように、するりと指の間から逃げたか。
まだ熟してはいないあなたを、もし神が搾られたなら、できあがったぶどう酒は、ひときわ苦いものになったことだろう。
聖なる務めにふさわしい人とは、生来の性質が神のご臨在によって変えられ、神への奉仕をすべき決定的な時に砕かれ、裂かれた人のことである。
神の御手にある裂かれたパンとなるには、まず自分が神の御手の中に入り、神と心を一致させなければならない。
神との関係を正しく保ち、神が望まれるとおりにするのだ。
すると、神の他の子どもたちを益するパンとぶどう酒を、神がどんどん作り出してくださっていることに気がつくはずである。
God Bless You!!
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