2022年9月3日(土)
『しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで……。』サムエル記第二23章16節
最近のあなたにとって「ベツレヘムの井戸の水」に相当するものとは何だったか。
愛、友情、あるいは霊的祝福か。
それが何であったにせよ、たましいを損なう危険を承知で、自分を満たすだけのために受けてしまったか。
もし受けてしまったのであれば、「主の前に」注ぐ水はもうどこにもない。
自分の満足のために必要だと思うものを、神に聖別することは決してできないからである。
神からの祝福で自分を満足させようとすると、あなたは堕落を免れない。
その「水」は神への「いけにえ」であり、残らず注ぎ出さなければならない。
常識からすれば、無駄にするのは愚かの極み、と言われることを、しなければならないのである。
それでは、自然の情愛や霊的祝福を、どのように主に注ぎ出せばよいのだろうか。
方法は一つしかない。
自分の心で決意することである。
神を知らないかぎり、受けることのできない親切を示される場合がある。
人間的にはそれに報いることなどとてもできないからである。
しかし、「私が受けるにはもったいない。
主の前に注ぎ出そう」と私が決めた瞬間、それらのものは「生ける水の川」となって周囲に流れ出るのである。
私がそれらを主の前に注ぎ出さないでいると、自分はもちろんのこと、愛する人までも霊的な危険にさらすことになる。
そのままにしておくと、もっと欲しいという欲望に変わるからである。
それ自体は卑しむべきものでもなく、俗悪なものではないものにも、もっと欲しいという欲望を持つ場合があるのである。
愛ですらも、主の前に注ぎ出されて、主にふさわしく変容されなければならない。
もしあなたが人に厳しく、不機嫌をあらわにするようになってしまったとしたら、神から祝福をいただいたときに、それを失うまいと握りしめたことが原因である。
一方、それを主の前に注ぎ出していたら、あなたほど慕わしい人はどこにもいないと思われたことだろう。
もし、いつも祝福を独り占めにして、何一つ主の前に注ぎ出そうとしないなら、あなたを通して人々の神に対する見方が大きく変わるということは決してないのである。
God Bless You!!
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