2022年9月27日(火)
『ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」』ルカの福音書9章57節、58節
主のこの男に対する態度は、冷や水を浴びせるようなものであった。
主は「人のうちに何があるかを知っておられた」からである。
私たちなら、「その人を獲得する機会をみすみす失うなんて」とか「北風のように冷たくあしらい、追い返して落胆させるとは、どういうおつもりだろう」と言うところである。
しかし、主に代わって謝る必要など、どこにもない。
私たちが傷つき、怒る種が尽きるまで、主のことばは私たちを傷つけ、怒らせるものだからである。
神に仕える者を最終的に破滅させかねない要因があれば、イエス・キリストは、それが何であれ、甘い態度をとられることは決してない。
主のお答えは、思いつきなどではなく、人の内側にあるものをご存じのうえで言われたものである。
もしあなたが傷つくような主のことばを神の御霊があなたに思い起こさせたなら、主が始末されたい、と願っておられるものがあなたに潜んでいる、と考えてよい。
58節のみことばは、イエスに仕えるのは、それが私にとって喜ばしいことだから、という言い分を根底からくつがえすものである。
これほど厳しい拒絶をされると、後に残るのは、主と自分、そして藁にもすがる思いだけである。
「どれほど多くの人が来ては去っていっても構わない。
ただ、あなたは、わたしとの関係以外のものを導きの頼りとしてはならない。
ただし、言っておくがわたしには枕するところもない」と主は言われる。
59節。
この人はイエスを失望させたくはなかったし、父親を傷つけたくもなかった。
私たちはイエス・キリストよりも、身内の者に忠実であろうと気を遣う。
その結果、主の優先順位は最後とならざるを得ない。
だれに忠実であるべきかという葛藤が起きたなら、どれほどの犠牲があろうとも、イエス・キリストに従うことである。
61節。
「主よ、あなたに従います。ただ……」という人は、行く準備だけは熱心にするものの、実際には決して出て行かない人である。
この男には出かけることにわずかなためらいがあった。
しかし、イエス・キリストの召しは中途半端なものではない。
別れを告げる暇すらないのだ。
私たちは名残を惜しむが、それは異教的であり、キリスト信仰に馴染まない。
神の召しに従う思いを鈍らせるからである。
一旦神の召しを受けたなら、出発し、立ち止まらないことだ。
God Bless You!!
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