2022年9月22日(木)

2022年9月22日(木)


『あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。』ヨハネの福音書13章13節


主人であり先生である方がいるということと、支配され、教えられる立場にあるということは同じではない。
主人であり先生である方がいるというのは、私以上に私のことを知り、どの友人よりも近しく、私の心の奥底にあるものまでも理解して、それを満たしてくださる方がいる、ということである。

それは、私の心にある、あらゆる不安や疑念、問題に対処してそれを解決し、安心できるようにしてくださる方がいる、という意味である。

主人であり先生である方がいる、というのはこのようなことであって、それ以下のものではない。
「あなたがたの師はただ一人、キリストだけです」。

私たちの主は、決してご自分が望むことを私にさせようと手段を講じることはなさらない。
ときには神が私を無理にでも従わせ、望むとおりになさればいいのに、と願うことがないわけではない。

しかし、主は決してそのようにはなさらない。
また私をひとりにしておいてくださればいいのに、と願うときもあるが、主がそうなさることはない。

「あなたがたは私を『先生』とか『主』とか呼んでいます。」
しかし、イエスは私たちの主となり先生となっているだろうか。

先生、主人、主ということばは、私たちの語彙から消えかかり、私たちは「救ってくださる方」「きよめてくださる方」「癒やしてくださる方」と呼ぶ方を好んでいる。

主のものとされた経験をそのとおりに表現することばは愛以外にはないのだが、神がみことばに啓示しておられる愛について、私たちはほとんど何も分かっていない。
従うということばを私たちがどう使っているかがその証拠である。

聖書によれば、服従とは対等な者同士の関係である。
たとえば、父子の関係における従順がそうである。

私たちの主は単なる神のしもべではなく、御子であった。
「キリストは御子であられるのに……従順を学び」とあるとおりである。

私たちが支配のもとにある、ということを常に意識しているなら、そのような考えそのものが、私たちにとっての主はいない証拠である。

もしそれがイエスに対する私たちの態度であるなら、主が望まれる関係から遠く離れている。
主が私たちに望まれるのは、主が私たちの主人であり、師であるのは当たり前であって、私たちがあえてそれを意識することもない、という関係である。

それは、私たちが主のものであるのは、主に従うためであるということ以外には何も分からないという関係なのである。

God Bless You!!


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