2022年9月20日(火)
『ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。』マタイの福音書5章48節
マタイの福音書5章38節から48節に書かれているのは、私たちの言動がだれに対しても寛容なものであるように、という主からの強い勧めである。
周囲の人と性格が合うかどうかを基準に信仰生活を送ることは、厳に慎まなければならない。
だれにでも相性の良し悪しはある。
好きな人もいれば嫌いな人もいる。
しかし、このような生来の好みが私たちの信仰生活を決定づけるようであってはならない。
「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら」、性格が全く合わない人とも、互いに交わりを持つことが可能だからである。
主がここで示された模範とは、善良な人でもなければ立派なキリスト者でもなく、神ご自身である。
「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」
言い換えれば、神があなたに示されたとおりのことを相手にも示してあげなさい、というのである。
すると神は、「天の父が完全であるように」私たちも完全であるかどうか分かるような機会を、実生活の中で十分すぎるほど与えてくださる。
弟子とは、人々に対する神の深い関心を、意識的に共有する人のことである。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」とイエスは言われる。
キリスト者としての特徴は、良い行いにではなく、神と似ているかどうかに顕著に現れる。
神の御霊があなたを内側から変えてくださると、人としての好ましい特徴というより、神の特徴があなたに現れるのである。
私たちに宿るいのちは、敬虔になろうと励む人間のいのちではなく、おのずと現れてくる神からのいのちである。
キリスト者のいのちの不思議な点は、神の恵みによって超自然的なものが自然なものに変わることである。
そしてこの経験が顕著に現れるのは、神との親密な交わりの時ではなく、むしろ日常の何気ない場面なのである。
混乱し、動揺するような事態に遭遇しても、そのただ中で平静を保つ力が自分に備わっていることに気づいて、私たちは驚くのである。
God Bless You!!
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