2022年9月18日(日)

2022年9月18日(日)


『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。』ヘブル人への手紙4章15節


新生する以前、私たちに分かる誘惑は一種類しかなかった。
「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです」という誘惑である。

しかし、新生したことによって、私たちは新たな領域に引き上げられ、これまでとは違う誘惑に直面するようになった。
主が経験されたのと同じ種類の誘惑である。

主が受けた誘惑は、未信者だったときの私たちにとっては魅力がないものであった。
人間としての私たちの性質に、もともとないものだからである。

主が受けた誘惑と私たちが受ける誘惑は、私たちが新生し、主の兄弟になるまでは、起きる領域が異なっている。
イエスが受けた誘惑は、人間に対するものではなく、人間になられた神に対するものだったのである。

新生したことにより、神の御子が私たちの内側に形造られる。
すると私たちの肉体は、主が地上におられた時と同じ状況に置かれる。

サタンは、単に私たちに間違ったことをさせようと誘惑するのではない。
新生した私たちの中に据えられたもの、すなわち神にとって価値のある存在となる可能性を奪うために誘惑するのである。

サタンは私たちに罪を犯させようと誘惑するのではなく、私たちのものの見方を変えようと誘惑するのである。
これが悪魔の誘惑であると察知できるのは、神の御霊以外にはおられない。

誘惑とは、私たちの霊的人格が、外部から、私たちとは異質の存在によって試されることである。
こう考えると、主が受けられた誘惑を説明することができる。

バプテスマを受け、「世の罪を取り除く神の子羊」として、イエスは「御霊に導かれて荒野に上って」、悪魔の「試験器」の中へ入って行かれた。

しかし主は倦むことも疲れることもなかった。
誘惑を通られたが、何一つ罪を犯すことなく、ご自身の霊性を無傷のまま保持されたのである。

God Bless You!!


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