2022年9月13日(火)

2022年9月13日(火)


『わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げ……ました。』ヨハネの福音書17章4節


自分を神に明け渡すというのは、生活の外見を変えることではなく、自分の意志を明け渡すことである。
それがなされれば、すべては完了したも同然である。

人生の危機はごくたまにしかやって来ない。
しかし、その危機の最たるものは、意志の明け渡しである。

神は決して、人の意志を挫いてまで明け渡しを強制したり、懇願したりすることはなさらない。
その人が自ら明け渡す時をじっと待っておられる。

この戦いは一度なされるだけで十分で、繰り返される必要はない。

《解放のための明け渡し》
「わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と主は言われた。

私たちが安息を求めてイエスに自らの意志を明け渡すのは、救いを経験し始めた後のことである。
心と思いに不安が起きるのは、イエスが私たちの意志に呼びかけておられるからである。

「わたしのもとに来なさい」
そうするかどうかは私たちの意志次第である。

《献身のための明け渡し》
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て……なさい」と主は言われた。
ここで明け渡すべきものとは、私の存在の中心で、イエスにあって安らいでいる自己である。

「わたしの弟子になろうと思うなら、自分に対する権利のすべてをわたしに明け渡しなさい」と主は言われる。
それがなされると、生涯の終わりまで、この明け渡しがその特徴となる。

この明け渡しがひとたびなされると、もはや、仮にこうなったらどうしようと心配する必要がない。
どのような環境の中に置かれようと、イエスがおられれば、それで十分だからである。

《死への明け渡し》
「ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」とイエスは言われた。

死刑にされるために縛られる、とはどういう意味かあなたは学んだだろうか。
高揚感の中で神に献身を誓うことのないように注意しなければならない。
撤回しかねないからである。

本当の明け渡しとは、キリストにとって関心のないものには、自分も関心を感じなくなるまで、「キリストの死と同じようになって、キリストと一つになっている」ことなのである。

明け渡した後はどうすればいいのか。
その後の全生涯において、神との絶えざる交わりを希求してやまないことである。

God Bless You!!


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