2022年8月9日(火)

2022年8月9日(火)


『そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。」』ヨハネの福音書11章41節


神の御子が祈られるとき、御父以外のことは考えず、意識もしておられない。
神は御子の祈りを常に聞き入れたもう。
したがって、私の中に御子が形造られているなら、御父は私の祈りも常に聞き入れてくださるのである。

しかし神の御子が、私の肉体に現されるように気を配る責任は私にある。
「あなたがたのからだは、……聖霊の宮」、つまり神の御子にとっての「ベツレヘム」なのである。

神の御子は私の中で妨げなく働いておられるだろうか。
御子のいっさい飾り気のない生き方が、地上におられた時のように、私に再現されているだろうか。

私という、ごく普通の人間が日々の出来事に遭遇するとき、永遠の神の御子が御父に向かって祈る祈りが、私の中でささげられているだろうか。

「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます」とイエスは言われた。
どの日のことを言っておられるのだろうか。
聖霊が私に臨み、私が主とひとつにされた日のことである。

主イエスは、あなたの生き方は十分に満足しておられるだろうか。
それとも、霊的に高ぶった歩みを主の前にしているのだろうか。
あなたの常識が幅を利かせて、神の御子を隅に押しやることが決してあってはならない。

常識とは、神が人間性に加えてくださった賜物である。
しかし、神の御子からの賜物ではない。
常識を超えた感覚こそが御子からの賜物なのである。

だから、常識を至上のものとしてはならない。
御子はいつでも御父を認識されるが、常識にそれができたためしは、今までも、これからもない。

私たちの平凡な能力が神を礼拝することは決してないのである。
内住される御子によって変えられないかぎりは……。

私たちは、自分の肉体が御子に完全に服するように心を配らなければならない。
それは、刻一刻、御子が私たちの肉体を通して働いてくださるためである。

私たちは、「イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるため」に、ここまでイエス・キリストに頼って過ごしているだろうか。

God Bless You!!


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