2022年8月8日(月)

2022年8月8日(月)


『生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。』ルカの福音書1章35節


もし、私の肉体に神の御子が生まれているなら、私はその汚れを知らない聖さ、まっすぐな心、御父との一体感が外に現れるように心を砕いているだろうか。

神の御子がこの世界に来てくださった、という歴史的な出来事において処女マリアが経験したことは、どの聖徒にもあてはまる。

神の御子が私の中に生まれてくださったのは、神の直接的なみわざによる。
であるならば、私は神の子どもとしての特権を行使しなければならない。
いついかなる時も、御父の御顔を仰ぎ見る、という特権である。

私は、世間の常識にとらわれた自分の生き方に対し、驚き呆れて、こう言っているか。
「なぜ今していることをやめようとするのか。
私が御父の仕事に専念しなければならないことが分かっていないのか」と。

どのような状況であろうと、聖なる、汚れなき、永遠の御子は、御父と常にいなければならないのである。

私はこのように、主と自分を同一視しているだろうか。
主は私の中で、妨げなく素晴らしい働きができているだろうか。
神は御子を私のうちに形成されつつあるだろうか。

それとも、私はそっと御子を脇に追いやってしまっているのだろうか。

最近の抗議の叫びはどうしたものだろう。
だれもが要求している。
神の御子を十字架につけろ、と。

神の御子には、今いるべき場所すらない。
御父と静かで聖なる交わりをする場所がどこにもないのである。
(*チェンバーズの時代のロンドンの世相を指して。)

神の御子は私の中で祈っておられるだろうか。
それとも、私が御子に指示を下しているのだろうか。

肉体をとられた日々のように、御子は私の中でみわざをなしておられるだろうか。
私の中におられる神の御子は、ご自身のみこころを達成しようと受難の道を通っておられるだろうか。

円熟した神の聖徒の内なる生活を知れば知るほど、神のみこころの意味するところが分かってくる。
私たちもまた自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしていかなければならない。

「満たす」ということは、まだ私たちのなすべきことが残っているということである。

God Bless You!!


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