2022年8月6日(土)
『その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。』ヨハネの福音書16章26節
私たちはキリストの十字架を、自分が通過しなければならないものとして考えることがあまりにも多い。
しかし、十字架を通過するのは、十字架の中に入るためなのである。
十字架が私たちに意味するものはたった一つしかない。
それは、主イエス・キリストと完全に、また全面的、絶対的に同一化されることである。
そして、祈るとき以上にそれが現実感を伴う時はない。
「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」。
そうであるなら、求める意味があるのだろうか。
祈りとは、そもそも神から答えを得るためのものではなく、神と完全に、すべての点において一体となることなのである。
もし私たちが答えを得たい、という理由だけで祈るなら、やがて神に対して苛立ち、腹が立つに違いない。
祈るたびに私たちは祈りの答えをいただいているのであるが、それが毎回、必ずしも期待した形で来るわけではない。
すると、私たちは霊的に苛立ち、祈りにおいて主と一つになることを拒むようになってしまう。
私たちが今ここにいるのは、神が祈りに答えてくださることを証明するためではない。
神の恵みの生きた記念碑としてここにいるのである。
「あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。
父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」。
あなたは、自分の祈りの生活を、主イエス・キリストの祈りの生活によってしか説明できないほど、神との親密な関係に至っただろうか。
主は、あなたのいのちと、ご自分の豊かないのちを交換してくださっただろうか。
もしそうであれば、「その日には」あなたはイエスとあまりにも似ているために、区別できないほどになっていることであろう。
祈りが答えられないように思えるとき、それをだれかほかの人のせいにしないように気をつけなければならない。
それはサタンが常套手段として使う罠である。
答えがないように思えるときには、必ず理由がある。
神はこのような時を、自らあなたに、深い個人的な学びを与えるために用いてくださる。
ほかのだれかではなく、あなたのために……。
God Bless You!!
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