2022年8月3日(水)

2022年8月3日(水)


『イエスは彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。」』ルカの福音書18章31節


主のご生涯において、エルサレムとは、御父のみこころの最終地点のことである。

「わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです」

これこそが、主のご生涯をずっと支配してきた唯一の関心事であった。
それゆえに、それまで経験したことは、喜びであれ悲しみであれ、成功であれ不成功であれ、主がご目的に向かうのを阻むことにはならなかった。

「イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」のである。

ここで忘れてならない大切なことは、私たちがエルサレムに上るのは、自分の目的を達成するためではなく、神のご目的を達成するため、ということである。

普通は、せっかくの大望は捨るべきではない、と考える。
しかし、クリスチャンとして生きるということは、自分自身の大望は何もないということである。

今日では、私たちがキリストを信じる決断や、私たちがクリスチャンになる決意、そして私たちがあれを、またこれを決意することの大切さが強調される。

ところが新約聖書を見ると、そこで強調されているのは、むしろ、神に迫られてみこころを実行することなのである。

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」

私たちは神のみこころを了解して、それに同意したわけではない。
何も意識しないままに、神のみこころに同意したのである。

したがって、神が何を目指しておられるのか、私たちにはさっぱり分からない。
それどころか、そのうちにみこころは次第に不明瞭になっていく。

しかし、神のご目的が的外れに見えるのは、私たちに近くのものしか見えず、神が目指しておられることの全体が見えないからである。

クリスチャン生活を始めたころ、神のみこころとは何かということについて、私たちは私たちなりの考えを持っていた。

「私は、あそこ、またはここに遣わされることになっている」、「神はこの特別な働きに私を召しておられるのだ」と。

そして私たちは出て行って、それを行う。
しかしそれでも、神に迫られて実行すべきみこころは未達成のままである。

私たちがする働きは、実はどうでもいいのである。
それは、神に促されてすることの大きさと比べれば、せいぜい足場程度のものにすぎない。

「イエスは十二人をそばに呼んで」とあるように、主は私たちを絶えず呼び寄せられる。
神に迫られてみこころを実行するということが、私たちにまだ十分に理解できていないからである。

God Bless You!!


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