2022年8月29日(月)

2022年8月29日(月)


『信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。』ヨハネの福音書11章40節


信仰生活において思い切った一歩を踏み出すごとに、常識から見ると、信仰と全く相容れないものが周囲の状況の中にあることに気がつく。

しかし常識と信仰は同じではなく、信仰も常識と同じではない。
常識と信仰は、肉体のいのちと霊的ないのちほどに異なるものなのである。

常識ではイエスに頼るべきでない場合でも、あなたはイエスに頼れるだろうか。
「それはすべて偽りだ!」と、様々な現実が、常識による生き方に基づいて叫び続けたとしても、あなたはイエス・キリストのことばを信じて、勇敢に踏み出すことができるだろうか。

信仰の高嶺にいるときなら、「もちろん、神にはできると信じる」と言うのは易しい。
しかし、その山にいつまでもとどまることはできない。

やがては、悪霊の支配する平地に降りて行き、変貌の山で得た信仰のすべてが嘲笑される現実と向き合わなければならないのである。何か神学的なことが

明瞭に理解できたと思うと、私はそのたびに、それを否定するような事態に遭遇する。
たとえば、「神が私のすべての必要を満たしてくださる」と言った途端、私の信仰は試され始める。

私の力が枯渇し、展望が失せたとしても、私はこの信仰の試練に雄々しく耐え抜くか、それとも敗れて後退するか。

信仰は試されなければならない。
戦いを経て初めて信仰は自分のものになるからである。

今、あなたの信仰に挑むものは何か。
その試練は、あなたの信仰の正しさを証明するものともなれば、あなたの信仰の生命を断つものともなりうるのである。

「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」とイエスは言われた。
最後にものを言うのはイエスに対する信頼である。

イエスを堅く信じ続けよ。
そうすれば、あなたに挑むものすべては、かえってあなたの信仰を強めてくれる。

最後の大きな試練となる肉体の死を迎えるその時まで、信仰生活の試練は絶え間なく続く。
信仰とは神に対する絶対的な信頼のことである。
神が私たちを見放されることは絶対にありえない、という信頼なのである。

God Bless You!!


a:26 t:1 y:0