2022年8月24日(水)
『あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。』マタイの福音書7章9節
主は祈りを、良いものを求める良い子にたとえられた。
ところが私たちは、自分と神との関係に関わりなく、神は私たちの願いを聞いてくださると思っている。
あなたが求めるものが与えられないのは、神のみこころではないからだ、と決めつけてはいけない。
気落ちしてはいけない。
あきらめてもいけない。
与えられなかった理由を突きとめることだ。
その理由を真剣に考え、どこかに手がかりがないか探すことだ。
夫婦の関係はどうか。
子どもたちや仲間との関係はどうか。
それらの関係において、あなたは「良い子」であったと言えるか。
それとも「たしかに私は不機嫌ではあったが、霊的な祝福は欲しい」と言い張るのか。
あなたが「良い子」になるまで、それらは「お預け」になり、あなたが祝福を受けることはない。
私たちは、反抗的でいながら神に従っていると思い違いをし、神に反論しながらすべてを神に任せていると錯覚している。
自分が間違っているのに、それを示す証拠には目もくれない。
借金がまだ残っているのに、欲しいものを買うためのお金を与えてください、と神に求める。
自分の家族には我慢を強いながら、自分はもっと自由が欲しい、と神に要求する。
「人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」とあるとおりに、私はしてきただろうか。
結局のところ、私はそうしてこなかったし、自分の家族、親族の中で、神の子としての生き方をしてこなかったのではないだろうか。
私が神の子となれたのは、ひとえに新しく生まれたおかげである。
それと同様に、神の「良い子」であるためには、「光の中を歩む」以外に道はない。
ほとんどの私たちにとって、祈りは敬虔な決まり文句、何やら神秘的で感情的な神との「交わり」になってしまった。
私たちは、霧のような曖昧な祈りを生み出すことには長けてはいるが、視界は閉ざされ、神のみこころが見えないでいる。
しかし、もし私たちが聖書という明確な基準と指標に目を留めれば、やがて何が問題だったのかはっきり見えてくることだろう。
あの友人関係、あの負債、あの怒りが問題だったのだ、と。
どんなに祈っても、神の子としての生き方をしていないのであれば、一切は無益である。
しかし、神の子どもとして歩んでいるなら、イエスはこう言われる。
「だれでも、求める者は受けます」と。
God Bless You!!
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