2022年8月2日(火)
『これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。』ヨハネの福音書16章33節
ふつう、クリスチャン生活というと、困難から救われる生活のことと思われている。
しかし本当は、困難の中で救われる生活のことをいう。
この違いは大きい。
「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は全能者の陰に宿る」
どんなわざわいも、どんな疲病も、あなたが神と一つであるかぎり近づくことはない。
あなたが神の子どもであるなら、必ずやいろいろな困難に見舞われることだろう。
しかしイエスは、たとえ困難が来ても驚いてはいけない、と言われた。
「世にあっては苦難があります。
しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝ちました」とある以上、あなたには恐れるべきものなどないのだ。
救われる前には、困難など問題にするに足りないと嘲笑っていた人が、新生を経験した後、弱音を吐くという場合がよくある。
それは、聖徒として生きるということに対して、間違った考えを持っていたからである。
神は、困難に打ち勝ついのちを与えてくださるのではなく、私たちが困難に打ち勝つのに応じて、いのちを与えてくださるのである。
重圧があるからこそ、たくましくなる。
重圧がなければ、たくましくなることはない。
あなたはいのちと自由、そして喜びを与えてください、と神に願っているか。
あなたが重圧を受け入れるのでなければ、与えられることはない。
しかし重圧に正面から向き合うならすぐに、あなたは力を得る。
臆する思いを振り切って、第一歩を踏み出せ。
そうすれば、神は、いのちの木から取ってあなたに食べさせ、あなたは栄養を得る。
目に見える形で人に尽くそうとすると、あなたは疲れ果てるだけである。
しかし、霊的に人に尽くすなら、力は増し加えられる。
神は、明日のための力も、一時間先の力も決して与えてはくださらない。
神が与えてくださるのは、今のこの瞬間の重圧に耐える力である。
自分の常識に基づいて困難に立ち向かってみたい、という誘惑が私たちにはある。
しかし聖徒であれば、困難に押し潰されたように見えても、勇気を失わないでいられる。
困難に打ち勝つのは、だれにとってもお話にならないほど不可能であるが、神には可能だと分かるからである。
God Bless You!!
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