2022年8月15日(月)

2022年8月15日(月)


『あなたがたは新しく生まれなければならない。』ヨハネの福音書3章7節


「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか」。
このニコデモの問いは、自分の権利、自分の人徳、自分の宗教心を含むすべてに対して死に、それまで知らなかった新しいいのちを受ける用意があるなら、何歳であろうと新しく生まれ得る、というのがその答えである。

この新しいいのちは、意識的な悔い改めと、無意識の聖さとして現れる。

《「この方を受け入れた人々……」》
イエスについて私が知っていることは、私自身の内的、霊的洞察から生まれたものだろうか。
それとも、単に他の人々の話の受け売りだろうか。

私と、私自身の救い主である主イエスとを結びつけるものが私の中にあるだろうか。
あらゆる霊的な自分史になければならないのは、イエスを個人的に知っている、という土台である。
新しく生まれるとは、私にはイエスが見える、という意味だからである。

《「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」》
私は、神の国があるという証拠を求めているだけなのだろうか。
それとも、神のご支配を実際に認識できているのだろうか。

新生によって、私は霊的にものを見る新しい力をいただいて、神のご支配を認識することができるようになる。
神のご支配はずっと続いていたが、神ご自身と同じように見えなかっただけである。
しかし、今や神のご性質にあずかるものとなった私に、神のご支配が見えるようになったのである。

《「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません」》
私は罪を犯すのをやめようとしているのか。
それとも、罪を犯すのをやめたのか。

神から生まれたというのは、罪を犯さないですむ、神からの超自然的な力が私に備わっている、という意味である。
聖書は決して「クリスチャンが罪を犯してもいいのだろうか」とは問いかけない。
聖書は、「罪を犯すことがあってはならない」と明言する。

私たちが罪を犯さないでいられるのは、新生が有効に働いているためであって、罪を犯さないでいる力が私たちにあるというだけでなく、実際に罪を犯すことがなくなったためである。

ヨハネの手紙第一3章9節は、私たちに罪を犯す力がない、と言っているのではなく、私たちの中にある神のいのちに従うなら、罪を犯す必要はどこにもない、と言っているのである。

God Bless You!!


a:30 t:1 y:0