2022年8月1日(月)

2022年8月1日(月)


『イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。』マタイの福音書11章1節


《去れ、と主が命じられるなら、今いるところには主が代わりに来てくださる》
神が「行け」と言っておられるのに、今いる人々のことが気になってとどまり続けるなら、あなたはイエス・キリストご自身の教えと福音伝道の機会を、まだ見ぬ人々から奪っていることになる。

あなたが主に従い、すべての結末を神におゆだねしたら、主があなたの町に行き、自ら教えてくださることだろう。
あなたが主の呼びかけに従わないでいる間、あなたは道をふさいでいるにすぎない。

主のみこころに異議を唱えないように、また自分の義務と思うことと主のご命令が競合しないように、気をつけなければならない。

「主が、新たな場所に行くように命じられたことは分かっている。
そうはいっても、私にはここでするべきことがある」と言うとしたら、イエスが言っておられることをあなたは本気で信じていないことになる。

《主が「口を閉じよ」と言われる時は、主が教えてくださる時である》
「先生。……幕屋を三つ造りましょう」

私たちは、自分なりに神の摂理と考えたことを、人々に押しつけていないだろうか。
私たちがあまりにも口やかましく教えようとするので、神ご自身もそばに近づけないほどではないだろうか。

私たちがするべきことは、ただ口を閉じ、霊的に注意を怠らないことである。

神は御子のことを私たちに教えたい、私たちの祈りの時を変貌の山に変えたい、と願っておられるのに、私たちは神にそうさせまいとしている。

神がどのように働かれるか分かった、と私たちが思い込むなら、神は二度と同じ方法では働かれない。

《神が、そこで待て、というところで、神は働きをされる》
「あなたがたは、……力を着せられるまでは……とどまっていなさい」

神を待ち望め。
そうすれば神が働いてくださる。

しかし、一寸先も見えないからといって、霊的にすねたり、自分がかわいそうだと思ったりしてはならない。
私たちは、神を待ち望むにあたって、霊的な癇癪を起こさないだけの冷静さを持っているだろうか。

待つ、というのはただ腕組みをして座っていることではない。
主が命じられるまで実行を待つ習慣を身につけることである。

以上は、私たちが稀にしか気づかない、神の方法の一側面である。

God Bless You!!


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