2022年7月7日(木)

2022年7月7日(木)


『「狭い門から入りなさい。……いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。」マタイの福音書7章13節、14節


私たちがイエスの弟子として生きようとするなら、気高いことはすべて、実行に困難が伴うことを忘れてはならない。

クリスチャン生活とは、輝かしくも困難なものである。
しかし、困難があるからといって私たちが弱気になり、屈服する必要はない。

むしろ、克服するための発奮材料とすべきである。

私たちには、イエス・キリストによる奇跡の救いに感謝して、主の栄光のために最善を尽くす用意はあるだろうか。

神は無上の恵みにより、イエスの贖いを通して人々を救ってくださる。
そして「神はみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」が、私たちもまた、日々の実際生活の中で「自分の救いを達成」していかなければならない。

私たちが主の贖いを頼りに、主がお命じになったことを始めてみると、何と自分にそれができることが分かる。
それができないとすれば、神が私たちに語られたことを、まだ実行していないからである。

いずれにしろ、危機がやってくると、私たちがみこころを実行したかどうかが明らかになる。

もし私たちが神の御霊に従い、神が御霊を通して私たちに語られたことを実行に移すなら、危機が訪れた際、神の恵みだけでなく、自分の特性までも力となってくれると分かるであろう。

神が私たちに困難をもたらされるのは、感謝すべきことである。
神による救いは喜ばしいものであると同時に、勇気と聖潔を必要とするものでもある。

救いは、私たちの真価を試すものなのだ。
イエスは今も「多くの子たちを栄光に導いて」くださるが、神の子たる身分を持つ私たちに対する要求を、神が免除されることはない。

神の恵みによって生み出されるのは、イエス・キリストと同じ家族としての特徴を帯びた者たちであって、甘やかされた意気地なしではない。

イエスの弟子にふさわしい、高潔な人生を実際に送るには、途方もない訓練が必要である。
そしてそれを得るには、常に努力が必要なのである。

God Bless You!!


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