2022年7月6日(水)

2022年7月6日(水)


『焼けた地は沢となり、……。』イザヤ書35章7節


物事が現実になるには、常にそれに先立つ夢がある。
その夢が現実になると気づいていながら、現実感が伴わないと、サタンが様々な誘惑をもって近づいてくる。

そしてこれ以上いくらやっても無駄だ、と私たちは思いやすい。
夢は現実とならず、かえって「屈辱の谷」(ジョン・バニヤン『天路歴程』より)を通ることになってしまうのである。

人生は無用の鉱石ではない
地中の暗部から掘り出された鉄鉱石だ
悲運という衝撃に何度も見舞われ
ついには形が整い、有用なものとなる
(アルフレッド・テニスン『イン・メモリアム』より)

神は私たちに夢を与えると、私たちがそれをかなう形にしていくために、私たちを谷底にともない、私たちを鍛錬される。
多くの者が音を上げあきらめてしまうのは、まさにこの谷底での経験のためである。

どんな夢であれ、私たちに忍耐さえあれば実現するものである。

考えてもみよ。
神にはあり余る時間があるのだ。
神は決して急いでなどおられない。

ところが、私たちは気も変にならんばかりにいつも急いでいる。
夢の残光があるうちに、私たちはいろいろなことに手を出してはみるものの、それが現実化していく実感がない。

そこで神は私たちを谷に連れ行き、鋼を火や水の中に通し、打ち叩くようにして、私たちを鍛錬されるのである。
しかしそれは、現実となった夢を神から任せられるまでのことである。

私たちに夢を与えられた時から、神は私たちがみこころの姿になるように、絶え間なく働き続けておられる。
ところが、私たちは何度となく神の御手から逃れ、自分の気に入った姿にしようと自分を鍛えるのみである。

神からの夢とは、絵に描いた餅ではなく、神があなたに望んでおられるあなたの姿のことである。

陶器師なる神の「ろくろ」に載せていただき、神が望まれるままに回していただこう。
そうすれば、神が神であることが確かなように、またあなたがあなたであることが確かなように、夢に見た姿と寸分ちがわないあなたに造り変えられるのだ。

その過程の途中で気落ちしてはいけない。
神からの夢を一度でも見たことがあるなら、あなたが中途半端な段階で満足しても、神はそれを許したまわない。

God Bless You!!


a:25 t:1 y:0