2022年7月3日(日)

2022年7月3日(日)


『ああ、私はわざわいだ。私は唇の汚れた者だから……。』イザヤ書6章5節(英訳)


神ご自身の前に出ると、もはや自分が罪人であることを漠然と意識することはできず、私の生活のどこかの領域で、罪がはっきりと姿を現していることに気がつく。

「もちろん、私は自分が罪人であると分かっています」と、人はたやすく言う。
しかし、神ご自身の前に出れば、そのように漠然とした、曖昧な言い方は通用しない。

自分の罪が具体的に示されて、私たちはようやくイザヤのように、自分の本当の姿に目覚めるのである。
これこそは、神の前に進み出た、という確かなしるしである。

罪の自覚に曖昧さはない。
今や、はっきりした罪へと、意識は向かう。

神はまず、私たちの思いに潜む一番の問題について、罪の自覚を目覚めさせる。
それを促すのは御霊である。

私たちが自分の罪を認めると、次に神は、その罪の深層に横たわる罪の本質を示してくださる。
神のご臨在の中にいると、いつもこのように私たちを取り扱われるのである。

このように、判然となった罪が何であるかを思い知らされる経験は、どれほどの罪人であろうと、またどれほどの聖徒であろうと、だれもが通るものである。

経験という梯子を一段上った程度では、「どこで間違いを犯したのかわからない」と言うことだろう。
しかし、やがて神の御霊は、明確で具体的な罪を示してくださる。

聖なる主の幻を見たイザヤは、自分が「唇の汚れた者」であるということが、やっと腑に落ちた。
「彼は、私の口にそれを触れさせて言った。
『見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された』」。

きよめの火は、はっきり形を現した罪に当てられなければならないのである。

God Bless You!!


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