2022年7月26日(火)

2022年7月26日(火)


『しかし、口から出るものは心から出て来ます。……悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。』マタイの福音書15章18節〜20節


私たちは自分の〈無知〉を〈純真無垢〉と呼び、〈純真無垢〉を〈清純〉と呼ぶ。
そのような私たちに、主からの手厳しい主張が聞こえてくると、私たちはたじろいで言う。

「そんな恐ろしいものが自分の心にあると感じたことは一度もありません」と。

イエス・キリストがさらけ出された事柄を私たちは不愉快に思う。
イエス・キリストは人の心を判定する最高権威か、それとも気に留める価値もない存在か、そのどちらかである。

さて私には、主が見抜かれたとおりであると認める覚悟があるだろうか。
それとも、自分の「純真無垢な無知」に頼るのだろうか。

もし私が自分を正直に見つめ、私の〈純真無垢〉をふるいにかけたなら、イエス・キリストが言われたとおりであることに愕然とし、自分の中にある悪や間違いによって起こるかもしれないことに身震いするに違いない。

自分は〈純真無垢〉である、という間違った安心感の中に逃げ込んでいるかぎり、私は幸福の幻想に浸っている〔*直訳「愚者の楽園にいる」〕にすぎない。

私が今まで一度も人前で悪さをせず、他の人に対して攻撃的でなかったのは、単に臆病であっただけかもしれないし、文化的な生活ができたおかげかもしれない

しかし、私が神の前に、自分を隠すものがいっさいないまま出たら、イエス・キリストの「お見立て」に間違いはなかったことが分かる。

私たちを本当の意味で守ってくれるものは、イエス・キリストの贖い以外にはない。
私が自分自身をキリストに明け渡しさえすれば、私の心に潜む恐るべき可能性を全く経験しないですむ。

〈清純〉は、自分の力では決して到達できない深みにある。
しかし、聖霊が入って来られると、イエス・キリストのご生涯に明らかであったように、私のいのちの中心に、聖なる霊、つまり汚れを知らない〈清純〉がもたらされるのである。

God Bless You!!


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