2022年7月22日(金)

2022年7月22日(金)


『神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。』テサロニケ人への手紙第一4章3節


《死の側面》
私たちが聖化にあずかるために、神は、いのちという側面だけでなく、死という側面からも働かれる。
ところが、私たちの多くは死の場所に長くとどまりすぎて、陰鬱な気持ちになってしまう。

聖化の前には常に激しい戦いが待ち構えている。
つまり、イエス・キリストが要求されることに対抗する怒りや反感が後押しするものがあるのである。

神の御霊が聖化の意味を教え始めるとすぐに、その葛藤が始まる。
たとえば「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」とイエスは言われるのをあなたならどう受けとめるだろうか。

聖化の過程で、私に残るものが自分だけになるまで、神の御霊は私からすべてを剥ぎ取る。
そこが死に場所である。

自分自身以外には何も残らない。
友も、父も、兄弟も、見返りもなく、死に備えるだけ、という状態を受け入れる用意が私にあるだろうか。

これが聖化の条件である。

「わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました」とイエスが言われたのももっともである。
こここそは戦いが始まる場所であり、多くの人の気が挫けるところである。

私たちは自分がイエスの死と同化されるのを拒む。
「しかし、それはあまりにも厳しい。
私がそこまでするように主が願っておられるはずがない」と私たちは言う。

そうではない。
主は厳しく、私たちがそうすることをたしかに願っておられるのである。

「私」には、自分自身以外には何も残らないという状態を受け入れ、友人が私をどう評価し、私が自分自身をどう評価するか気にすることをいっさいやめ、ありのままの自分を神の御手にお任せする用意があるだろうか。

もしそれができたら、神はたちどころに私の全体をきよめ、健全な者としてくださる。
そのとき、私は神以外のものに対して、本気で関わる必要から解放されるのである。

「主よ、聖化が私にとってどんな意味があるのか、お示しください」と祈れば、主はそれを教えてくださる。

聖化とはイエスと一つにされることである。
聖化とは、イエス・キリストが私に付与してくださるものではなく、イエスご自身が私の中におられることなのである。

God Bless You!!


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