2022年7月21日(木)

2022年7月21日(木)


『心の貧しい者は幸いです。』マタイの福音書5章3節


私たちの主を単なる教師と考えることのないように気をつけなければならない。
もし教師にすぎないなら、イエス・キリストは、私に到達不能な基準を設定し、私に挫折感を抱かせるだけの存在になってしまう。

私に到達できない崇高な理想を示すことに何の意味があるだろうか。
それなら、全く知らなかったほうがましである。

私が決してなることのできない「心のきよい者」になることや、自分の義務以上のことをすること、あるいは神に完全に献身することについて語られても、何の意味があるだろうか。

イエスの教えが、私にとって何かしらの意味を持つには、まずイエス・キリストを自分の救い主として知らなければならない。
私を絶望へと導く高尚な理想では意味がない。

しかし、神の御霊によって生まれ変わると、イエス・キリストが来られたのは、教えるためだけではなかったことを知る。
主が来られたのは、私を主が教えられたとおりの者に造り変えてくださるためである。

贖いとは、イエス・キリストがご自身のいのちを支配していたのと同じ性質を、だれの心の中にも据えてくださることを意味している。
神が示される基準のすべては、その性質を前提としているのである。

山上の説教の教えは、生まれながらの人に一種の絶望感をもたらす。
しかし、それこそイエスが意図されたことなのである。

私たちが、自分には実行できる、とひとりよがりの思いを持っているかぎり、神は私たちが勝手に歩むままにしておかれる。

しかし、それは私たちが何かの障害につまずいて自らの無知をさらす時までのことである。
その時になって私たちはやっと、貧者として主のもとに来て、素直に恵みを受けることができる。

「心の貧しい者は幸いです」
……これこそが、神の国の第一原則である。

イエス・キリストの王国を支える基礎は、所有物ではなく、何も持たない貧しさである。
イエス・キリストを信じる決心をすることではなく、自分には何もない、と知り、「私には到底できません」と認めることである。

そのとき、イエスは言われる。
「ああ、幸いです」と。

これが、御国への入り口である。

しかし、自分が本当は貧しい者であるということが信じられるまでに、どれほど長い時間がかかることか。
自分の貧しさを知って初めて、私たちはイエス・キリストがそのみわざを成し遂げられた正しい出発点に来ることができるのである。

God Bless You!!


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