2022年7月2日(土)

2022年7月2日(土)


『わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。』ルカの福音書14章26節、27節


自分にとって最も大切な人との関係が、イエス・キリストの要求と真っ向から衝突した場合には、迷わずわたしに従いなさい、と主は言われる。

弟子になるというのは、私自身が主イエス・キリストに、熱烈に献身することである。
しかし、個人に対する献身と、主義、主張に対する献身には大きな隔たりがある。

私たちの主が、主義、主張に対する献身を呼びかけられたことは一度もない。
主はご自身に対する献身を呼びかけられたのである。

弟子になる、というのは主イエスを愛するがゆえに、自ら主の奴隷になることである。

私たちの中には、自分をクリスチャンと呼びながら、イエス・キリストに献身していない人が少なくない。
地上のだれ一人、聖霊に授けていただかないかぎり、主イエスを熱情的に愛する愛を持つことはできないのである。

イエスを崇め、尊敬することはできる。
しかし、自分の力でイエスをそこまで愛することはできない。

主イエスを真の意味で愛しておられるのは聖霊だけである。
この聖霊なる御方が、神の愛そのものを私たちの心に注いでくださるのである。

聖霊は、あなたを通してイエスに栄光が帰される機会が訪れるたびに、あなたの全存在を占有し、イエス・キリストに献身できるようあなたを燃え上がらせ、輝かせる。

クリスチャン生活に特徴的なのは、偽りがなく、何にも縛られず、人まねでないことである。
その結果、弟子もイエス・キリストと同じく、行動が矛盾している、との非難を被ることになる。

しかし、イエス・キリストの神に対する態度は首尾一貫していた。
それと同じように、クリスチャンも、厳格で融通のきかない信仰信条に対してではなく、自分の中に息づく神の御子のいのちに対して、首尾一貫した態度でなければならない。

人々は自分の信仰信条に閉じこもり、そこから出ようとしない。
そのため、一人ひとりがイエス・キリストに献身できるように、神は先入観や固定観念という殻を、木っ端微塵に吹き飛ばさなければならないのである。

God Bless You!!


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