2022年7月19日(火)

2022年7月19日(火)


『あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。』ヨハネの福音書13章13節


私たちの主は一度たりとも、私たちを支配する権限がご自分にある、と主張されたことはない。
「あなたはわたしに従わなければならない」と言われたことも全くない。

それどころか、私たちに完全な選択の自由を与えてくださっている。
御顔に唾を吐きかけ、死刑に処する自由さえ、私たちに委ねられたほどである。

そのうえ、主は一言の抗議も発せられることはなかった。
しかし、主の贖いによって、主のいのちが私のうちに宿ってから、ただちに気がつくのは、主が私に対して完全な支配権をお持ちであるということである。

それは、従わずにはいられない支配権と言ってもよい。
「あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」とあるとおりに……。

栄誉にふさわしい方にひざまずくのを拒むとしたら、私の中に栄誉を受けるにふさわしくないものがあることが原因である。

私が自分より聖なる人物に出会っても、その人の美点を認めず、その人が教えることにも従わないとしたら、私は自ら、自分の至らなさを露呈しているのである。

神はこのように、私たちより知的にまさる人、というより、聖なる点でまさる人を用いて、私たちを育成される。
私たちが主ご自身のご支配に入り、生活全般が主への服従となる時まで、それが完了することはない。

もし、主が従順を強要されるのであれば、私たちの主は単なる監督者にすぎず、本当の権威は消えてなくなってしまう。

主が従順を強要することは決してないが、主がそう言っておられるのだということが本当に分かると、私たちはためらわず主に従う。

すると、主が私たちの人生の主であることを容易に受け入れることができるばかりか、私たちは朝から夜まで主を礼拝して過ごさずにはいられなくなる。

自分が神の恵みをどこまで理解できるようになったかは、従順に対する見方がどう変わったかを見ればはっきりする。

私たちは、今や時代遅れのものとして世の泥の中に埋もれてしまった「従順」ということばを救い出さなければならない。

そもそも従順とは、対等な者同士の間で初めて成り立つ関係である。
それは父と子の関係であって、主人と召使の関係ではない。

イエスはこの関係を「わたしと父とは一つです」という言い方で示された。
また、「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び」とある。

御子は私たちの贖い主として従順になられた。
それは、御子という立場を得るためではなく、初めから御子であられるからである。

God Bless You!!


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