2022年7月17日(日)

2022年7月17日(日)


『そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく……。』コリント人への手紙第一2章4節


パウロは第一級の学者であり、雄弁家であった。
ゆえに、自分を卑下してそう述べたのではない。

自分が福音を説き明かすときに、「説得力のあることば」で人を感銘させるのであれば、神の力に覆いをかけることになる、と言っているのである。

人がイエスを信じるのは、贖いが有効に働いて生まれた奇跡であり、哀願や促し、説得によってではなく、ただ神の力だけによって起きた奇跡なのである。

贖いの持つ創造的な力は、福音を説き明かすときにもたらされるものであって、説教者の性格によるものでは決してない。

説教者にとっての本当の断食とは、食を絶つことではなく、雄弁、印象深さ、洗練されたことば遣いなど、神の福音が福音として伝えられることを妨げる一切のものから手を引くことである。

説教者は、神の代理人としてそこに立っているからである。

「……神が私たちを通して勧めておられる……私たちはキリストに代わる使節なのです。
私たちはキリストに代わって願います」とパウロは言う。

説教者は神の福音を提示するために、そこにいる。

私の説教を聞いたから、という理由だけで、自分の生活を改めたいという人々が、イエス・キリストの近くにすら来ることは決してない。

福音を語るとき、そこに少しでもうぬぼれがあると、いつしか私はイエスにとって裏切り者となってしまう。
イエスの贖罪という創造的な力を私が阻害するからである。

「わたしが……上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」

God Bless You!!


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