2022年7月10日(日)

2022年7月10日(日)


『愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。』ヘブル人への手紙10章24、25節


私たちのだれもが、霊的に怠惰になり得る。
人生の荒波は、できるだけ避けて通りたいし、できるだけ世の喧騒から離れ、安全に、また安心して暮らしたいと思っている。

ところが、ヘブル人への手紙10章は、お互いに励まし合い、ひとつになって行動しようではないか、と強く勧めている。

励ますにも、力を合わせて行動するにも必要なのは、積極性である。
自己実現ではなく、キリストのみこころが実現されるために、自分から一歩踏み出すことである。

閉じこもって、他の人と関わりをもたない生活は、イエス・キリストが教えられた霊的な生活とは正反対である。

私たちの霊性の真価が試されるのは、不当な扱いや辱めを受け、感謝もされず、不安に心騒ぐ時である。
実はそのような時こそ、霊的に怠惰な者になりやすい。

私たちは、試練に遭うと、人々から離れ、心を静めようとして祈り、聖書を読む。
つまり、平安と喜びを得るために、神を利用するのである。

私たちが求めているのは、イエス・キリストから得られる喜び、楽しみであって、キリストのみこころを実現することではない。

これこそは、間違った方向への第一歩である。
平安や喜びは、結果にすぎないのに、私たちはそれを得ることを目的としてしまっているのである。

「それを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせることを、私は……なすべきだと思っています」とペテロは言っている。

霊的に元気な人に痛いところを突かれることほど、心が騒ぐ時はない。
普通のことで元気にしている、ということと、霊的に元気である、ということとは同じではない。
元気そうに見えても、霊的には元気でないことのカモフラージユという場合もある。

霊的に怠惰でいることの真の危険は、励まされることを嫌がることにある。
この世から退き、静養したい。
それ以外は、何も聞きたくない、という態度である。

しかし、イエス・キリストが、この世から身を引くように勧められたことは一度もない。
むしろ、こう言っておられる。
「行って、わたしの兄弟たちに、……言いなさい」と。

God Bless You!!


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