2022年6月9日(木)

2022年6月9日(木)


『だれでも、求める者は手に入れます。』ルカの福音書11章10節


《求めよ、もしまだ受けていないなら》
求めることほど難しいことはない。
私たちは待ち望み、欲し、渇望し、苦しむ。
しかし、行き詰まってどうにもならない状況になるまでは求めないのである。

ところが、霊的に何かが足りないという不全感があると、求めないわけにはいかなくなる。
あなたは、このような霊的貧困のどん底から求めたことが一度でもあるだろうか。

「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい」。

しかし、求める前に、自分には知恵が欠けている、と納得できていなければならない。
自分の好きなときに、霊的な現実に向き合うことはできないからである。

霊的な不全感がある場合の次の対策は、イエス・キリストのお約束に基づき、神に聖霊を求めることである。
聖霊は、イエスがあなたのためにしてくださったことのすべてを、実感として分からせてくださる御方である。

「だれでも、求める者は手に入れます。」

求めなければ受けられない、という意味ではなく、あなたが求める気になるまでは、神から何も受けることはない、という意味である。

受ける、というのは、あなたが神の子としての交わりに入ったこと、そして今や、知的にも、道徳的にも、霊的な理解においても、それらのものが神から来たものであることが分かる、という意味である。

「知恵に欠けている人がいるなら……。」

もし自分に知恵が欠けていることに気づいたなら、霊的な現実を直接知ることができた、ということである。
もう二度と、自分の理性で目隠しをしてはならない。

人々は言う。
「単純な福音を語ってくれ。
聖くなれ、と言うのはやめてくれ。
自分が絶望的に貧しい、という気持ちになってしまうではないか。
自分が極貧状態だと感じて、良い気持ちにはなれない」と。

「求める」という語は「物乞いをする」というのが原意である。
自分の「貧しさ」に関心を持つ程度に貧しいだけの人もいる。
実際、私たちの霊的状態はその程度かもしれない。

しかし、一定の結果を念頭に置いて求めるだけでは、決して何も得られない。
貧しいからではなく、欲しいから求めているにすぎないからである。

物乞いは、自分の悲惨な状態から助かりたい、という以外には求める理由が一つもない。
したがって、求めることを恥とは思わないのである。

「心が(物乞いさながら)貧しい者は幸いです」。

God Bless You!!


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