2022年6月7日(火)

2022年6月7日(火)


『あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。』ヨハネの福音書14書13節


私は心の奥まったところで、このとりなしという務めを全うしているだろうか。
真のとりなしの働きには、騙されるという罠や危険も、また鼻にかけるという高慢も潜んではいない。
御父が栄光をお受けになるのは、とりなしという隠れた働きがあればこそ、である。

私は自分に与えられた霊的ないのちを無駄遣いしてはいないだろうか。
主によって贖われたということを、一切の中心においているか。
私の生活のあらゆる興味や関心事は、イエス・キリストによって、さらに強く支配されているか。

もし、私の生き方に最大の影響を与えたことの中心が、主によって贖われたということであるなら、私の人生はその時々において、主のために実を結ぶはずである。

とはいえ、私の力の中心となっているこの力とはどういうものか理解するためには、時間をかけなければならない。

一時間のうち一分でもいい。
考えてみようではないか。

「あなたがたがわたしにとどまるなら」というのは、これを中心点として考え、行動し続けるということである。
そうすれば、「何を求めても、それはかなえられる」のである。

私はそのような意味において主にとどまっているか。
またそのための時間を取っているか。

私の生き方にとって活力の最大の源は何だろう。
仕事か、奉仕か、他の人のために犠牲になることか、それとも、神の働きに邁進することか。

そのどれもふさわしいとはいえない。
私の生き方に最大の力を発揮するべきものは、主に贖われたという事実である。

人格形成を決定づける要因とは、何に最も多くの時間を費やすかということではなく、私たちに最大の力を及ぼすものが何かということである。

であるなら、私たちの願望も関心も、キリストの十字架による贖いに集中し、狭めていく決意が必要である。

「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。」

イエスにとどまる弟子とは、神のみこころの現れである。
したがって、弟子が何気なく選択したように見えることさえ、神があらかじめ定められたものである。

神秘的で、論理に反し、ばかばかしい、と思う人もいることだろう。
たしかにそうかもしれない。

しかし、聖徒にとって、それは栄光に満ちた真理なのである。

God Bless You!!


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