2022年6月29日(水)

2022年6月29日(水)


『もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。』マタイの福音書5章30節


イエスは、だれもが右の手を切り落とさなければならない、と言われたわけではない。
「もし右の手があなたをつまずかせ」イエスとの歩みを妨害するなら、そのときは「切って捨てる」ほうがよい、と言われたのである。

法的には全く問題がなくても、神を中心に生きようとすると行えないことがある。

あなたの右の手とは、あなたにとって最良のものの一つである。
しかし、もしそれがイエスの教えに従う妨げになるなら、「切って捨てよ」とイエスは言われる。
このような行動原理は、人類を驚かせた教訓の中で最も厳しいものである。

神が新生によって人を造り変えると、その人の人生に、どうにもならない不自由が生じる。
つまり、あえてしようとは思わないことが数多く生まれるようになる。

それらはどれも、あなたを知る世の人々の目から見れば、あなたの右の手であり、目である。

すると、霊的なことが分からない人は言うのである。
「それのどこが悪いのか。
頭がどうかしてしまったのではないのか」と。

そもそも、このような不自由を背負わずにすんだ聖徒は、いまだかつて一人もいない。
しかし、人に称賛されても神の前で満足に歩けないよりは、たとえ不自由を抱えても、神から称賛され、いのちに入るほうがまさっている。

信仰生活の初めに、イエス・キリストは、御霊によって、あなたの行動の多くに制限をかけられる。
それらはどれも、他のだれが行おうとも全く問題はないが、あなたが行えば問題になるものである。

とはいえ、自分の行動にかけられる制限を理由にして、他の人を批判しないように気をつけなければならない。
クリスチャン生活は初めから不自由を負ったものである。

しかし、マタイの福音書5章48節において、イエスは完全ないのちの姿を示された。
「……あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者とされます」と。(英訳)

God Bless You!!


a:27 t:1 y:0