2022年6月28日(火)

2022年6月28日(火)


『私は……ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。』ピリピ人への手紙3章12節


神の働き人になる道を、決して自分から選んではならない。
しかし、ひとたび神からの召しを受けたのに、右や左に逸れるなら、あなたはわざわいである。

私たちが、今いる場所で神のために労するのは、私たちがそのように選択したからではなく、神が私たちを捕らえてくださったからである。

そして、神が一旦そうされたなら、「この働きは私に向いていない」という思いは、決して浮かばないものである。
あなたが聖書からどのように福音を説くかということも、生来の好みによってするのではなく、神が決めてくださる。

あなたのたましいと神との関係を堅固なものに保ち、自分が召されたのは、単に自分の証しを伝えるためではなく、福音を説くためであることを忘れてはならない。

どのクリスチャンにも証しをする義務がある。
しかし、福音を説く召しを受けたなら、神の御手のもとで身動きができなくなる、というある種の苦悩を通らなければならない。

あなたの人生は、まさにその目的のために神に捕らえられたものなのだ。
そのように神に捕らえられた人が、身の周りに何人いるだろうか。

神のみことばを決して受け入れやすように暖味にしてはならない。
厳しい内容であっても、そのまま伝えるのだ。
神のみことばに対する忠実さに妥協は許されない。

しかし、人々と個人的に交わるときには、自分がどういう人間であるかを思い出せ。
あなたは、天国で創造された特別な存在ではなく、恵みによって救われた罪人である。

「兄弟たち。
私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ一つのこと、すなわち、……キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」。

God Bless You!!


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