2022年6月26日(日)

2022年6月26日(日)


『私たちは……あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。』


きのう受けた恵みも、きょうのためには役立たない。
恵みは神のあふれる恩寵である。
いつでも供給が受けられると考えてよい。

「すなわち、苦難にも苦悩にも困難にも」……まさに忍耐が試される場面である。

あなたはそこで神の恵みに拠り頼むのを忘れていないだろうか。
「今回、私は当てにされていない」と言っていないだろうか。

神に祈って助けを求めているかどうかが問題なのではなく、今、神の恵みを受けているかどうかが問題なのである。

私たちは祈りを奉仕のための準備と考えやすいが、聖書のどこにもそのように書かれているところはない。
祈りとは、神の恵みを引き出す行為なのである。

「一人になって祈ることができるまで我慢しよう」と言ってはならない。
祈るのは今である。
必要を感じたら時を置かずに神の恵みを引き出すのだ。

祈りほど実際的なものはほかにない。
祈りは静思の時、意志と無関係に出る反射行動ではない。
神の恵みを引き出すのは祈りである、ということに私たちはなかなか気づかないでいる。

「むち打ちにも入獄にも騒乱にも、疲れ果てた時も……」、またその他のあらゆることの中にあっても、神の恵みの供給を実際に受けてみよ。

そうすれば、あなただけではなく、他の人々も神の奇跡を目の当たりにすることになる。
神の恵みを受けるべきは今であって、「そのうちに」ではない。

霊的な語彙の中でひときわ大切なことばは、「今」である。
状況が変わってどこに行くことになったとしても、想定されるあらゆる状況で、神の恵みの供給を絶やさないことだ。

あなたが神の恵みを引き出している何よりも確かな証拠とは、あなたがどれほど屈辱的なな扱いを受けようとも、あなたからは神の恵み以外に何一つ出てこないことである。

「何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」。

安心のための備えは無用である。
自分の最善を注ぎ出し、常に貧しい者であれ。
決して世渡り上手になってはいけない。

神に与えられた宝物を失うまいと決して心配してはいけない。
これこそ、貧しさゆえの勝利なのである。

God Bless You!!


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