2022年6月25日(土)

2022年6月25日(土)


『何と言おうか。「父よ、この時からわたしをお救いください」と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。』ヨハネの福音書12章27節、28節


悲しみや困難を前にしたときの私の態度は、聖徒としてどうあるべきか。

それらを阻止してください、ということではなく、どのような悲しみの炎の中を通ろうとも、神が造られた私のままでいることができますように、と願うことである。

私たちの主は悲しみの炎のただ中にあっても、ご自身を見失うことがなかった。
その危機の時を経験することから(from)救われたのではなく、危機の中を通って(out of)救われたのである。

私たちは、悲しみなどなければいいのに、と言う。
しかし、悲しみは現に存在する。
私たちに求められているのは、その非悲しみの炎の中で自分を見失わないことである。

もし、私たちが悲しみを避け、悲しみを覚悟しないとするなら、愚かとしか言いようがない。
悲しみとは、否定しようのない人生の事実の一つである以上、悲しみなど存在するべきではない、と言っても無駄である。

罪と悲しみ、そして苦しみは確実に存在する。
そのようなものを許容された神は間違いを犯したのだ、と私たちがいくら言っても、無駄である。

悲しみは、うわついた生き方の大部分を燃やし尽くしてくれる。
しかし、そのおかげで立派な人間になれるとは限らない。
苦しみによって、人は自分を見出すこともあれば、自分をだめにしてしまうこともあるのである。

成功を収めることによって、自分を見出すことはできない。
のぼせ上がってしまうからである。

同様に、単調な日常生活を通して自分を見出すこともできない。
不満が口をついて出てくるからである。

本当の自分は、悲しみの炎の中でしか見出すことができない。
なぜそうなのか、ということは重要ではない。
しかし、聖書においても、人生の経験においてもそれが真実であることは疑いようがない。

悲しみの炎を通り、自分を見出した人は、すぐに見分けがつく。
だから、あなたが困ったときに相談するのは決まってそのような人である。
そして期待たがわず、その人はあなたのためにたっぷりと時間を取ってくれる人であることに気づく。

悲しみの炎を通った経験がない人は、あなたを見下し、あなたのために時間を取ってくれることもないだろう。
しかし、もしあなたが悲しみの炎の中で自分を見出すなら、神は人々を励ますためにあなたを用いてくださることだろう。

God Bless You!!


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