2022年6月24日(金)

2022年6月24日(金)


『……今はあなたがたの時、暗闇の力です。』ルカの福音書22章53節


人生にあらゆる悲劇が生まれるのは、罪という現実が納得できていないからである。

あなたは人間に宿る高貴さについて語るかもしれない。
しかし、人間性には、あなたの理想をことごとく嘲笑するものが潜んでいる。

もし人間性に邪悪さと利己主義など、紛れもない忌まわしさや過ちが存在しているという事実を認めようとせず、罪があなたの人生に襲いかかっても、罪が原因であると認めなければ、あなたはいつか罪と妥協し、罪と戦っても無駄である、と弱音を吐くことだろう。

あなたはこのような「時」「暗闇の力」を考慮に入れているだろうか。
それとも、罪を見て見ないふりをしているのだろうか。
人間関係や友情においても、罪が現実の問題であると、納得できているだろうか。

もしそうでないとすれば、たちまち罪につかまり、妥協せざるを得ないことになる。
けれども、罪が現実の問題であることを認めるなら、たちまちその危険を察知し、「言われていた意味がやっと分かりました」と言うことであろう。

罪を罪として認めたからといって、友情にひびが入ることはない。
むしろ、罪深い人生の土台は悲劇的なものである、という事実を心に刻むことになる。

罪というものが存在する、という事実を認めない人生観にはよくよく注意しなければならない。

イエス・キリストは人間性というものにいっさい信頼を置かれなかった。
しかし、冷笑的になることも、疑い深くなることも全くなかった。

このような人間の性質に対してご自分ができることに全き確信があったからである。

罪からの害を受けずにすむのは、無邪気な人ではなく、清い人である。
無邪気であれば安全ということは決してない。
無邪気になろうとする必要はどこにもない。

神が求めておられるのは、清さと美徳である。
無邪気さは子どもにこそふさわしい。

罪を事実として認めない人がいるとすれば、大いにその責めを感じるべきである。

God Bless You!!


a:32 t:1 y:0