2022年6月21日(火)
『しかし、あなたがたは……王である祭司……です。』ペテロの手紙第一2章9節
どのような権限で、私たちは「王である祭司」になれるのだろうか。
キリストの贖いである。
私たちは、自分のことはいっさい度外視して、祭司のこの祈りの務めに踏み出す用意があるだろうか。
自分がそれにふさわしい状態にあるかどうか知ろうと、自己吟味ばかりしていると、やがて自分中心の、病的なキリスト教信仰が生み出される。
それは、生命力にあふれた、裏表のない神の子どもの生き方とは異なる。
私たちが神との正しい関係に入るのでなければ、まさに私たちは首の皮一枚でつながっているにすぎない。
ところが私たちは「何という素晴らしい勝利を得たことか!」と言うのである。
贖いの奇跡が起きた証拠が何もないにもかかわらず……。
向こう見ずと言われるほどに、キリストによる贖いが完了したという信仰に立って、祭司の務めに取りかかろうではないか。
そして、自分のことについてあれこれ心配することはやめ、イエス・キリストが言われたように、「夜中にあなたを訪ねて来る人」、神の聖徒たち、そしてすべての人のために祈るのだ。
キリスト・イエスの中にあるかぎり、自分は完全である、という認識をもって祈れ。
「主よ、私は最善を尽くしました。
ですから聞いてください」ということを祈りの根拠にしてはならない。
自分のことばかり考える、という病的な傾向から解放していただくのに、神はどれくらいの時間を必要とされるのだろう。
私たちが自分にとことん愛想が尽きるまでである。
そうなれば、もはや神から自分がどういう人間かを知らされようと、驚くことは何もない。
自分がどれほど卑しい人間か、その深さを私たちには測ることができない。
しかし、そんな私たちが神と正しい関係でいることのできる場所が一つだけある。
それはキリスト・イエスの中である。
私たちがそこに行ったならば、自分のすべてを注ぎ出して、とりなしという内なる務めに励まなければならない。
God Bless You!!
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