2022年6月20日(月)

2022年6月20日(月)


『ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにされた。』ヨブ記42章10節


悲しげで病的な自己本位の祈り、そして自分が神の前に正しくありたいという決意のどれも、新約聖書とは全く無縁である。

そもそも、自分の努力で神との関係を正しくしたいと思うこと自体が、キリストの十字架による贖いに対する反逆に等しいことなのである。

「主よ、あなたが私の祈りを聞き届けてくださるなら、私は自分の心を清めます。
もし私を助けてくださるなら、正しい人生を歩みます」と祈ったとしても、そもそも私には神との関係を正しくする力がないし、完璧な生活など送れるわけがない。

自分と神との関係を正しくする、というなら、主イエス・キリストの贖いを無償の贈り物としていただく以外に道はない。

問題は、それを受け取る謙虚さが私にあるかどうかである。
つまり、そうするためには、自分の権利や要求のすべてを放棄して、空しい努力をいっさいやめ、自分自身を神の御手にすっかりゆだね、祭司のようにとりなしの働きに自分を注ぐ生活を始めなければならない。

しかし、キリストの贖いを全く信じないままささげられる祈りのなんと多いことか。
イエスは私たちの救いに着手されたわけではなく、すでに私たちを救ってくださったのである。

事は成ったのである。
それなのに、救ってください、と願うのは、キリストに対する侮辱である。

もしイエスが約束された百倍をあなたがまだ受けておらず、神のみことばを悟るに至っていないなら、あなたの友人たちのために祈り始めるという、人の心の内面に働きかける奉仕に参入することである。

「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにされた」とあるではないか。

たましいの救いにあずかったあなたが、人生で本当になすべきことは、とりなしの祈りである。
神があなたをどのような環境に置かれようとも、あなたの身に起きたのと同じように、他の人々の人生にも贖いが成就するように、ただちに祈ることだ。

あなたの友のために祈るのは今である。
あなたがふれあう人々のために祈るのは今である。

God Bless You!!


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