2022年6月10日(金)

2022年6月10日(金)


『求めなさい。……そうすれば見出します。』ルカの福音書11章9節


《求めよ、まだ見つかっていないなら》
「求めても得られないのは、……悪い動機で求めるからです」。

神からではなく、人生から何かを求めているなら、あなたの求め方は間違っている。
つまり、自己実現を欲しているにすぎないからである。

自己実現をしようとすればするほど、あなたは神を求めないようになる。
「求めなさい。……そうすれば見出します」とある。

心を定め、あなたの興味と関心をこの一点に絞るのだ。
あなたは今まで一度でも全身全霊で神を求めた経験があるだろうか。
それとも、傷心による痛みから、弱々しい叫びを神に向かって発した程度だろうか。

求めよ。
そして心を集中せよ。
そうすれば見つかる。

「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい」。

あなたは渇いているのか、それとも自己満足し、霊的なことに無関心なのか。
今まで経験したことに満足し、神から得たいものは何もないのか。

経験とは入り口であって最終目的地ではない。
経験を土台として信仰を建て上げないように留意せよ。
さもなければ、そこから金属音のような、辛らつなことばが鳴り響くようになる。

自分が発見したものは、人に与えたいと思ってもできることではない。
しかし、あなたが持っているものを、自分も持ちたい、という願いを人に起こすことはできる。

「たたきなさい。そうすれば開かれます」
「神に近づきなさい」

扉は閉められている。
扉をたたくたびに鼓動は激しくなる。

「手をきよめなさい」

少し強めにたたいてみる。
すると、自分が汚れた者であることに気がつく。

「心を清めなさい」

これはさらに個人的な問題であり、必死に、また真剣にならざるを得ない。
こうなれば何でもするしかない、という覚悟ができる。

「嘆きなさい」

あなたは自分の心の状態を見て、神の前で悩んだことがあるだろうか。
自己憐憫が入り込む余地はない。
あるのはただ、自分という人間の本当の姿を見たという胸の張り裂けるような驚きである。

「主の御前でへりくだりなさい」

神の扉をたたくというのは、ある意味で屈辱的な経験である。
十字架にかけられた強盗の場合と同じようにたたかなければならないからである。
しかし、たたく者にはやかで扉が開かれるのである。

God Bless You!!


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