2022年5月7日(土)
『あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。』ルカの福音書14章28節
主がここで言っておられるのは、私たちが計算すべき費用のことではなく、主がすでに計算をすまされた費用のことである。
その費用とはナザレでの30年間と、人気を博し、悪評と憎しみの的となり、ゲッセマネで経験された底知れぬ苦悶、そしてカルバリでお受けになった猛攻撃の3年間である。
これを旋回軸として時と永遠は回転している。
イエス・キリストはその費用を計算された。
「この人は建て始めたのに、完成できなかった」と言って主をあざ笑うことのできる人はだれもいない。
26節、27節、そして33節で主がお定めになった弟子の条件を見ると、主がその社大な「建設計画」において用いようとしておられる人とは、その人の中で、主がすべてをなし終えてくださった人であることが分かる。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」
主がこのことばに込められた意味は何か。
主がその「建設計画」において用いられる人とは、地上で自分と最も絆が深い人にもまして、個人的、熱情的、献身的な愛で主を愛する人、ということである。
この条件は生易しいものではない。
しかし、同時に栄光に満ちたものである。
およそ私たちが建てようとするものはすべて、神による精査を受けなければならない。
神の燃える炎で照らし出されるとき、イエスという礎石の上に、私たちが勝手に築いたものがあるのを神は看破されないだろうか。
今日、大きな事業が次々と立ち上げられ、私たちは神のために働こうとしているが、そこに落とし穴が潜んでいる。
厳密に言えば、私たちが神のために働くということは決してできることではない。
イエスはご自身の計画とご自身の建築計画のために私たちを召してくださる。
したがって、自分の「配属先」を指定できる人は 一人もいないのである。
God Bless You!!
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