2022年5月24日(火)
『この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。』ヨハネの黙示録1章17節
使徒ヨハネのように、あなたもイエス・キリストを親しく知っているかもしれない。
しかし、もしキリストが全く思いがけないお姿であなたの前に突然現れたら、あなたは「死んだ者のように」倒れ込むことしかできない。
威光を帯びずに神がご自身を現すことはできない場合がある。
実はその畏怖を目の当たりにすることこそ、あなたに絶望による喜びをもたらしてくれるものなのである。
あなたは、自分を立ち上がらせてくれるものは神の御手以外にないことを悟り、絶望の中にあってもこの喜びを経験する。
「その方は私の上に右手を置いて言われた」
畏怖の念に打たれているさなか、御手が触れるのを感じる。
それは、イエス・キリストの右手だと分かる。
それは抑制や矯正、あるいは懲らしめのための手ではなく、永遠の御父の御手である。
主の御手が置かれるときにはいつでも、そこに名状しがたい平安と慰め、そして「下には永遠の腕がある」こと、そして十分な支えと備え、慰め、力のあることを直感する。
ひとたび主の御手に触れていただくなら、何ものによっても二度と恐怖に突き落とされることはない。
ご昇天の栄光に包まれた主イエスは、取るに足りない弟子のもとにまで来て、「恐れることはない」と言ってくださる。
主のお心のこまやかさはことばに表せないほどの優しさに満ちている。
はたして私は、主をそのような御方として知っているだろうか。
絶望の原因となるものをいくつか見てみるとよい。
少しも喜びがなく、終わりが全く見えず、明るい希望がどこにもないという絶望がある。
ところが、「自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいない」ことを知ると、絶望による喜びがやってくるのである。
神がご自身を啓示されたら、御前にひれ伏すしかないものが私のうちにあり、起き上がるには、神の御手によって起こしていただくほかはないと知るとき、私は喜びに震える。
私が、自分に可能なことの限界を悟るまでは、神が私に対しておできになることは何もないのである。
God Bless You!!
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