2022年5月2日(月)
『もし遅くなっても、それを待て。』ハバクク書2章3節
忍耐とは平静を装うことではない。
忍耐ということばには、どのような攻撃にもびくともしない強固な岩というイメージがある。
神からの幻こそは、忍耐の源である。
それは心深くにインスピレーションを与えてくれるものだからである。
モーセが耐え忍んだのは、自分が正しいと思うこと、また義務と思うことに自分を献げていたからではなく、神からの幻があったからである。
「目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです」。
神からの幻がある人とは、偉大な目的や具体的な問題に心血を注ぐ人のことではなく、神ご自身に自分を献げる人のことである。
幻が神からのものであると常に分かるのは、幻に伴って受けるインスピレーションがあるからである。
なすべき事にやりがいがあり、生活に張り合いがある。
あらゆるものが神の力を帯びているのである。
ところが神からのことばが一つもない、という試練の時を神はあなたに与えるかもしれない。
それはちょうど、御子が荒野の試みで実際に経験されたことである。
神がそうされたときには、ひたすら耐えることだ。
すると、耐える力も備えられているはずである。
あなたには神が見えているのだから。
「もし遅くなっても、それを待て。」
すでに達した以上のところに行こうとしているということは、私たちが幻を持っている証拠である。
霊的に満足するのは悪しきことである。
「私は主に何と応えたらよいのでしょう。
私は救いの杯を掲げます」と詩篇作者は言う。
ところが私たちはともすると、今の自分の中に満足を見出そうとして言う。
「やっと手に入れた。
私はすっかり聖められた。
これで耐えることができる」と。
その瞬間、私たちは堕落に向かうことになる。
私たちは自分が達した以上のところを目指さなければならない。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして追求しているのです」。
今まで経験したことがすべてであるなら、私たちは何も持っていないのと同じである。
しかし、神からの幻というインスピレーションを受けるなら、まだ経験すべきものが多く残っているのである。
霊的に「くつろいで」しまう危険に注意せよ。
God Bless You!!
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